紫微天文暦 4709年目の記録 (徐福東渡2229年目)赤埴和晴郷土史研究家
徐福第一陣の捕虜輸送船団の八丈島玉石発見」
コスタリカに第二陣徐福船団の石工と神官を乗船させた船が漂着か
地軸が南極観測データーで動いていると確認できた
子産石(こうみいし) 三浦半島西側バス停 K版



「玉石発見現場の地層について」 / 逗葉日中友好協会
地域住民たちが家を建てるために基礎工事の掘り起こしをすると特定の地域に限ってボール状の玉に近い石が出てくる。この地域の地層は多くが佐島石とよばれる砂岩で、それは大谷石に比べたら非常に柔らかい性質のものである。
三浦半島の岩盤は二万年前に形成された泥岩層である。
泥が固まって堆積した土や砂の軟弱な地層が認められる。
形成期には新しい堆積物が上に重なるのであるから、砂岩が固められた理由は珊瑚のカルシュウムが溶けて浸透し凝着材となって砂や瓦礫が固まって佐島石ができあがったと想定される。その砂岩層から数億年も前のプランクトンが堆積したチャートと呼ばれる玄武岩硬度の玉石が出現するのである。
その場面は海面から二十メートルも上であり、海岸側の斜面表層部から海に向かって崩れ落ちるように落石する。
「玉石の形成成分と付近の地層のギャップについて」
顕微鏡で表面を確認すると、古代の海底プランクトンが堆積したもので、アンモナイトと同じ時代のものが化石として岩石化したものである。このように、硬い岩石は付近では見られないことから、他のところから運ばれた物であると想定することが自然であると考えられる。三浦半島の表層部は掘削すると泥岩しか出てこない地域で、なぜこのようなボール状の玉石が産出するのか謎に包まれていた。また200m沖の磯からも佐島石の層から玉は出土する。
「地域の土着信仰がうまれた」
子供がなかなか授からない人々が、この玉石を抱いて寝ると不思議と授かるという、いつしか「子産石」と呼ばれるようになったのである。横須賀市が管理する文化財としての指定は無く、文化遺産として指定の大きな玉石が一つである。写真の表題の上の巨大玉石のみで、その他の玉石は指定の範囲ではなかった。石文(いしぶみ)幼児が掴める大きさの物も発見された。 玉石がなぜ出土するのか、市役所生涯学習課でも、誰もその疑問に解答できなかったと言うものである。
「徐福とは何者でどこから来たのか」
私が徐福(秦渡来伝説)に興味を持ち取材を続けているうちに、いくつかの重要なポイントに気がついたのである。
徐福の研究は国内外とりわけ中国において、徐福会という大きな組織があり(http://www.gywenhua.gov.cn/index.html)仏教会の最長老が長を努めるほど権威のある会なのです。日本におきましては、元総理大臣の羽田孜氏が代表を務めている。
徐福は秦始皇帝に命ぜられ、蓬莱に東渡するための船を建造したと、司馬遷著書の「史記」の中に記載されている。


その歴史演技はこれからのロマンであると思いますが、焦点を玉石に合わせて結論を進めましょう。
古代の帆船の構造上、船底に玉石を敷き詰め重心を低くして船を安定させるのが設計の基本であった、
西洋の木造帆船軍艦も同じつくりであった。
古代帆船の構造にこの謎を解く鍵があったのだ。

帆船は底が丸く砂浜に着床しやすく、設計されている。接岸するには、満潮時に砂浜に近づき干潮を待って船を横倒しする形で下船したのである。断崖絶壁付近では波の勢いで船体に接触させ破壊させてしまう。また岩場では座礁するからである。
建造時も安全な平地を選び、船体を傷つけない砂浜に囲まれた場所が適地と考えました。古代造船所もおそらく砂浜であろう。船舶を進水させるには砂を掘って船の周囲に水を入れることで容易に浮上させ、錨は石製で穴を開けロープで繋ぎとめていた。
「理想的な木造帆船のウエイト」
なぜ、石が球体でなければいけないのかと言う理由であるが、球と言うのは、一点で接触する特徴がある。つまりピンポイントで板に加圧することが可能だからである。


板の反り返りなど水を含み船底の防水性能に問題が生じた時に、直ちに修復しなければならない。水圧に強くするには当然船体の外側から防水用の詰め物をするが、航海中では不可能であるから、玉石をどけて水漏れ箇所を発見して内側から応急処置で止めたのである。
しかし、大掛かりな修理が必要な時には、近くの陸地に船を乗り上げ、船底側面の修理を行ったのである。その際に修理する舷側と反対の側に船底の玉石を移動させ重心を移動させたのである。大航海時代の帆船も玉石を積んでいた。

木造船の宿命ともいえる水漏れは、常時どこから漏水してもおかしくない構造である。板目を防水材で塞いでも、虫に食われたり荒波を受ける度に船体はきしみ隙間が出来てしまう。水漏れの量によっては着岸させ修理をしたのである。
上左写真は昭和36年製造の日本の和船である、木造であり板倉造船所で製造された最後期の貴重なものである。寿命は平水域で30年であるが外洋航路では10年も持たないであろう。
古代の木造船の航海ほど危険であり生死をかけた冒険はなかったのである。現在はFRPで防水処理を施して保存している。
「徐福の時代背景とは歴史はいかに」
今から2200年前の中国には七つの国が存在した、秦国は六国を平定しその王たちを処刑したのである。勝利した王は秦始皇帝である。強大な武力をもち、また側近に風水師や様々な技術者を置いていたのである。その独りの風水師、道士であった徐福を呼び出し命じたのである。
蓬莱という国が東にあるそうだ、不老長寿の秘薬があると聞き及んであるが、調査に行ってくれまいか。徐福は時の政治情勢が不穏であり、粛清も度重なって行われる状況で、いつ自分の番が回って来るかと心配であった。
早急に皇帝の爲に手柄を上げたいと密かに思い悩んでいたときである。正直に皇帝に対して助言を申し上げたのである。六国の処刑した王たちの家臣や一族、それに農民に慕われていた幼い王子や姫君たちの処遇でありますが偉大な秦王が童子まで無慈悲に処刑したとなると沈静化した民からの反乱が起きるやも知れない。そこで蓬莱に遠島(追放)という提案を徐福がしたのである。秦皇帝は、それは良い妙案だ、その際には蓬莱にあると言う秘薬をも持って帰ることを忘れるなよと苦言を刺して、第一陣の船団を組み捕虜の童子と警備の役人達を乗せて出航したのである。
「徐福の到着を記す八丈島郷土史」
その童子たちは、八丈島に着岸し遠島作戦は成功したのである。女たちは機織の技術を持っていた、男たちは農耕をして紡ぎの素材である桑の木を栽培したのである。だが考えてみると百二十五人しか乗せられない処に、童女五百人を乗船させ、他の一隻に童男を五百人乗船させたと言うのは、やはり奴隷船扱いである。どんなにか過酷な航海であったはずである。
さらに記録によると、それら男女を別々に違う島に置き去り状態になってしまった。八丈島の語り伝えによると自分たちはこの島に取り残されてしまい徐福たちは、いくら待っても戻って来なかった・・・。

徐福第一陣、八丈島に役人を運んだ船の玉石
その後その子孫には風習が始ったのである。一年のある時期には、向かい側の男の島から、浜に女たちの敷いた筵(むしろ)で一夜を過ごして行く、七夕の彦星と織姫の話が伝えられている。それらは、研究が進むに父島は母島など解明されるだろう。織物黄八丈、黄色は皇帝の色で平民が着たら処罰なぜ織れたのか皇帝の子孫であると解明されるかもしれない。
1疋(ひき)が8丈の長さで羽織と袴上下絹織物を産出する島だから八丈が島と呼ばれるようになった。(反物の単位)
そして男女別々にしたかは、明白である。子孫を残し、親の敵討ちに秦国を滅ぼそうと攻められて仇討ちを画策されないようにである、徐福が皇帝と約束した男女別にするという命令を受けていたからである。徐福は温情が篤かったのだろう泳いで来れる二島に離れ置いたのだから。この史実は八丈島の民話の中に克明に語り継がれているのである。
「プロジェクトの規模と操船に必要な船員の数など」
徐福のプロジェクトの規模はどの程度であろうか、童男五百、農耕をさせる捕虜、童女五百機織の捕虜であるが、管理者を忘れてはなりません。つまりその他に重要な職務の役人も共に東渡させた事実であります。つまり第一陣は最低三隻が必要なのです。船の規模をどのように知るか、それは簡単です。石錨の大きさから計算できるのです。私が所有するトロール船は29トンですが錨は29kgが必要です。かなりの重さで屈強な男性三名であっても海底に食い込んだ状態から船上に引き上げるのは至難の業です。羅其湘教授の前徐福村から出土した石錨は90kgなのですから、船の規模を試算すると。そのときの古代帆船は90tの規模であることがわかる。木造船でそのような大型船が作れるのかという疑問があるが、大航海時代の船舶は木製でありなが900tもあった、バイキングたちが使っていた大砲を24門も乗せ四本マストの船から比べたら十分の一の規模である。
この徐福の船の船員、錨を上げる要員は六名が最低必要であろう、帆の上げ下げに六名。舵を操作するのに四名以上が、さらに賄(まかない)船のキッチン要員が二名は要するとすれば、船員だけで二十名は必要なのだ。
「役人を乗せた船が他にもあった」
秦始皇帝は、単なる厄介者を遠島するというのではなく、黄八丈という黄色の絹織物を捕虜たちに製造させて献納させる計画があったことがわかります。男女を別々の島に投獄したわけですから、逃げないように、子供を産まないように管理する牢屋番の役人が必要であった。さらに1000名の捕虜の生産を上げさせる管理者の規模はどの程度であったろうか、やはり三隻めの役人と徐福を乗せた船は125人乗りの規模であれば、定員目一杯に乗船させて、最低徐福を含めて25名と他の船の船員20名は帰路についた。一隻は八丈島と小島を輸送する役人の船として残したのである。
八丈の玉石の数を計測して何隻分の玉石か判定は可能だが、解体された船の数はあまりにも多いと考えられる。太平洋の荒波で帆船を島に留め置くことなど自然の驚異を知った者なら絶対に理解できない。
大型の帆船は重量があり浜に引き上げることはできない、破壊されてしまうまえに自分達で解体して小型船に作り替えるのである。
一年後はまた新しい船団を補充に来ると、八丈島に残した役人と堅い約束があったのだ。しかし徐福たちはこの島に再度戻ることはなかったのである。この島に残した古代船の玉石は、いまでも陸揚げして綺麗に保存されているので、否定も弁解の余地もないのだ。
八丈小島を見張れる位置に役人は番屋を築いた

「帰路についた徐福たち」
残りの童男童女を乗せて来た二隻の船に徐福たちは乗り換えて帰路に着いたのでありますが、プロジェクトは大方成功してほっと胸をなでおろした。左側面から来る風は帆に当たり進路を北に操ったのだ、いやそれしか進む方向がなかったのだ。五百人の童子は体重が20Kgとしても10tは軽くなりました。船の喫水船はまちがいなく上がりました。古代船の弱点は荷物を積んで居れば向かい風で進路を維持しやすいのです。ところが荷が無いと風で流されてしまうのです。現代のヨットはセンターボードで船の転倒を制御しています。古代船は船底の僅かなキールしかありません。

まだ大仕事が残っています、その成功の報告をしなければなりません。船を北上させるコースを取り帰路に着くのですが貿易風や偏西風に逆らって船を進めることに苦労をした。
三浦半島に差し掛かったのですが風早橋付近の強風に船は思うように操船できません。石錨を投げて停船命令を出したのですがそのロープは切れてしまい久留和地区に難破して船体は大破してしまいました。状況から見ても玉石は広範囲に落石しました船底を岩礁にぶつけ船底に穴が大きく開き、進水が止まりません。とうとう船は、一隻になってしまいました。
この残った船で陸に沿って船を進めることになるのです。蓬莱の美しい風景をみながら、徐福はこの土地に仙薬があると聞きましたが、もはや調査の力は残っていなかったでしょう。だが再挑戦してこの土地を開墾して領土を広める決意を堅くして、秦皇帝に進言と報告をするため帰路を急いだのです。その航路はジグザグであり迷走したと大いに考察します。古代帆船は追い風では非常に速度も出ますが、向かい風では斜め前方にしか進められません。通常の何倍もの時間を必要とします。途中に立ち寄ったのが韓国の済州島なのです。それで徐福の碑が残されている所以です。荒波に呑まれて、本当にこれで最期で駄目だと思ったのかもしれません。また船はそこで捨て陸路で皇帝の下に報告に戻ったのでしょう。
「徐福は蓬莱に移住を決意した」
一年後秦始皇帝の下に出向いたのであります。不老長寿の秘薬を見つけましたが更なる栽培が必要となったので、移住してある年月をかけて増やす必要があります。つきましては百工(技術を持った職人多数)と労働力を提供していただきたいと申し出たのである。一番の心配事であった捕虜の遠島、仇討ち問題を解決した徐福は、皇帝の願いを叶えて信頼を得たのであった。捕虜たちの管理をしている役人たちの交代もその与えられた責務である。捕虜達の機織の献上品(黄八丈)も積んで帰ってくれば皇帝は喜ぶに違いない。


黄帝が着る八丈の絹織物 桑と蚕が豊富な島
村には役人の妻や家族が帰ってくるのを楽しみに待っているのである。プロジェクトがこれで終わりにさせるなど家族達の大反対のクーデターが起こる状況である。一刻も早く第二陣の派遣を皇帝に申し出たのであった。そして、第二陣は大船団を組む提案をしたのである。皇帝は気を良くして援助を惜しみなく与えたのであった。それが移民プロジェクトXの始まりなのである。江蘇省を中心とした地域の職人を集め徐福村の近所や徐福の妻の故郷から人をあつめた、だが徐福は西風に向かう航海の難儀さを思い、再度故郷に帰る自信が無かった為に徐村に遺言を残していった。徐福村の民たちに告げた、これからは徐を名乗ってはならない。それはもし徐一族が戻れなかった場合裏切ったことになり、皇帝の怒りを受けて一族が皆殺しになるからである。
「徐福古代造船所の遺跡が残っている」
上海の対岸の海岸沿いに造船所は建造されたのであった。その規模は記録によると、外洋船は大人百二十五人乗りであると、生活スペースを含めると排水量五十トン規模の船舶であったと思われる。そして二十五隻であれば三千人の輸送が可能である。
最初の船団、百二十五人しか乗せられない処に、童女五百人を乗船させ、他の一隻に童男を五百人乗船させたと言うのは、やはり奴隷船扱いである。どんなにか過酷な航海であっただろうか。ただ偏西風だけが順風満帆の勢いである。
ここまでの話は、あくまで司馬遷の記載した史記の内容などから、あきらかであり、中国側の徐福研究家も認めている。
「日本の社会の教科書に書かない謎」
徐福渡来は歴史から削除されている。抹殺されたとしても言い過ぎではない。移民五百年後こんどは高句麗族が大磯に上陸し、朝鮮語の強制支配である。神輿が運ばれ神社参拝も強要され蛮行が繰り返された。先住民族のアイヌも悲哀に泣き濡れる日々が続き、徐福たちも逃れるように奥地へと移動した。山梨県富士吉田市に徐福の墓が言い伝えられている。
郷土史編纂の土橋寿教授の指導を受けながら、この研究がさらに深まっていったこと、ご指導を心から感謝するものであります。
「吾妻鏡に記載されている唐船の出入り」
高句麗族支配後に任那の日本府から日本と国名を名乗った。八幡宮寺で記載された「吾妻鏡」は、その三万行に及ぶ資料の中から唐船の入船出船の記載を抽出し分析を行ってきた結果船舶が難破したり、遣唐使船であったり、実に多くの外洋航路の船舶が立ち寄っているのです。当然波の穏やかな安全な入り江で遠浅の逗子湾も係留場所を提供していたのである。
鎌倉和賀江島の干潮時の露出岩石航空写真
逗子海岸の海底にある謎のYセクター

海底に刻まれた五隻を係留するドック遺跡
世界遺産登録は正にここではないか?
鎌倉和賀江島から出る石は玉石ばかりである、それは船舶を解体し海底に溜まってきたという証明でもある。多くは鎌倉市民の台所の漬物石として丁重にそして安全に保管されている。
吾妻鏡の記載では、唐船は五隻以上は停泊させてはならない、その一行に記されていることから見ても、外洋航路を航海する巨大帆船が着床していた事実を伺い知ることが可能であるこの鎌倉と言う地名は逗子湾も昔は含んで指している。
また記述によると嵐にあって沖で唐船が沈没して死体だけが漂着したとも記載がある。唐船は八丈島を往復していたのだ。
「道教の儀式の祭礼の記述」
鎌倉の八幡宮は、実は明治の前までは、「八幡宮寺」という道教寺院であった。その証拠に寺院の奥の宝物館に展示してある伽藍図に「紫微宮」とある。これは道教で「神位」と認める中心を意味する単語である。この社殿は伊豆大島に正面を向けて建立されている。建設様式が中国の伝統ではない。
「鎌倉八幡宮寺」 杭州市「霊隠寺」道教

杭州天文台で4709年前に子年が定められその恩恵を受けて私たちの文化があることを忘れてはならない。(斜めった謎?)
「子産石産出場所の状態について」
海抜二十メートルの現在のバス道路と同じレベルにある。水際から急斜面を上がった場所になる。昔の海岸線であると想定できる。なぜならば、地質学の調査の結果、このあたりは隣の千葉の房総半島と一体となったプレートの上にあって、隆起という動きをしているのである。三浦半島は房総半島と共に、一年間に十ミリ年々上昇している。つまり二千二百年前の海底であった場所は現在では二十二メートル上に位置するのである。
ただし、この隆起は一定ではなく関東大震災では城ヶ島は一気に一メートルも隆起したのである。つまり今現在は沈下の方向に進んでいて下の写真の最遠方の岩が波打ち際であったが現在は水没に近いと地元の主婦は証言している。まさに地中の岩盤はユミを大きく弾いたように弧を描いて沈み込んで跳ね上がるのを今かと準備をしているのである。そして次の関東大地震が起きるとすれば、沈下分を含めてさらに隆起するのである。その繰り返しをしながら現在に至るまで確実に隆起をしている。
バス停の付近から海を見下ろせる


「船舶は石錨が切れ難破し玉石は落ちた」
子供を下ろした後に重心が軽くなり西風で舵が利かなくなった。
三浦の風早地域と言ったら強風で船主は恐れている、円柱石錨も切れ落ちて難破した。玉石と石錨は徐福船のものと同一と想定できる。なぜ難破か、その先には遠浅の逗子海岸も鎌倉の浜もあるからだ、安全な砂浜に辿り着く直前に断崖のような半島の一角に乗り上げる形で座礁したのである。

「石を積載した徐福造船所の解明」
この発見を裏付けるためには、まだ大きな仕事が残っている。それはこの玉石がどこの造船所の近くから産出されたものか特定する作業である。徐福の造船所で玉石が産出される可能性があるのは、高い山があり急流で岩石が転がり落ちる際に十分磨耗して玉石になれる環境を有する河川といったら銭塘江なのであります。黄河上流は平原湿地帯、長江上流も平原湿地帯だから岩石の産出現場に恵まれないのである。
造船所のあった地域 上海の南側対岸
慈渓地域の航空写真


上海市の左南方を流れる「銭塘江(せんとうこう)」である、この川の上流から転がりながら(さざれ石の巌となりて)研磨され球状にされた玉石は、川原に溜まって来ます。それを船でさらに下流に運搬して、造船所まで運びこんだと想定できる。
「銭塘江下流取水ダムの衛星写真」
「銭塘江中間の玉石の溜まる三角州採取予想地点」

徐福が出航した港と船を造船した場所が必ずしも同じであるとは限りません。なぜならば船舶の造船にはその地形を選ぶ必要があり、進水式の時点で事前に船底にバラスト用の玉石を積載しなければならないからです。風を帆に受ける段階で重心をさらに低くしなければ転覆してしまうからである。
現在の船舶はエンジンでバラストの代わりをさせており、燃料や飲料水そしてトリムタンク(揺れ調整)で重心を確保している。
銭塘江上流の岩石の発生地域である「上江村」
「子産石の成分」 三浦の子産石の1mm表面を拡大

子産石を表面を研磨して内部を顕微鏡写真撮影すると多くのプランクトンが確認され数十億年前の化石が硬い岩石化したものであることがわかる。銭塘江の最上流の上江村と言うのは、越してしまうと分水嶺となり山嶺の水は反対側の河川、昌江に流れ込み川の中流には、景徳鎮市がある。この河は湿原にいたってさらに長江の源泉となる。景徳鎮が焼き物で有名であるのは、良質の混じりの無い珪砂や炭酸カルシュウムが川の底に真っ白に堆積し大量に産出する。つまり、この白いプランクトンは景徳鎮に流れ込む白い成分とおなじであろうと想定するのである。(中国側の調査資料結果を期待している)
銭塘江は風景明媚で非常に水の綺麗な観光地であり、道教寺院である「霊隠寺」があり、まさに道士としての徐福に縁のある地域と確信するものなのです。
子産石以外にも唐船の錨として逗子市や鎌倉市境付近から出土した石の調査分析を急ぎたいと思っている。
「へそ石の謎は解けた」
円柱形(中空)「へそ石」と言う物も発見され、横須賀市でその団塊を半分に切削して断面を公開している。石錨資料@
同じ物が発表された。徐福研究論文集、北京燕山出版社
著者 羅其湘教授「石錨の路」で発表。徐福村で発見された円柱形錨資A90Kgに掲載。前徐福村約二里地点出土。




徐福像(富士吉田市) 徐福村資A 石錨資@断面久留和
また、逗子市小坪住吉神社境内長方形石錨資料A
一箇所に穴が開いている。徐福村の錨図と一致した。
「その後の徐福の子孫」
徐福は出航時に三人の子供が居たが、渡来してから四人が生まれ七人の子孫を残した。ただし女子の数は入っていないかもしれない。日本に徐福の子孫を名乗る者や渡来伝説が多い理由であろうと思う。
日本に稲作や機織を伝え、農民としての生活が主体であったと思われる。アイヌ達に言葉や文字を教えた可能性もある。アイヌの伝説の中に字の書ける長が居たと語り伝えられているからである。それが、高句麗の侵略から逃れるためにアイヌ民族の中に逃げ込んだ徐福の一族であることを否定しきれない状況である。神奈川県中央部には秦野(はだの)という地名がある。
まさしく秦国から来た人々の住む土地と言う意味である。
「渡来した2228年前の気候について」
徐福が出航した正確な時期は、BC219年である。温暖な気候であった、司馬遷の史記のなかに蓬莱の人々は麻の布に首だけを出して紐で腰を結んでいたとあります。髪は後ろで結び、おさげにしていたとあります。イメージできるのは暖かい地域の服装であります。
船舶を造るための木材は非常に大きく育ち、さらに硬質で釘も打てないような性質のものなのです。鉄木とよばれる木材です。通常そのような木材は歯車を作ったり軸受けに使われたりするものです。堅木(かたぎ)や鉄木(アイアンウッド)と呼ばれ腐らない木でもあり比重は水より重く沈んでしまいます。木は水に浮くという常識をくつがえすほど重量があります。フィリッピンや東南アジアで産出される亜熱帯植物なのです。
このような環境で徐福の造船所も木材に恵まれていたという条件を満たさなければなりません。徐福来訪の時代背景を考察するにあたって、大変重要とは環境が今とは違う点であります。2228年前は縄文時代で、モンスーン地帯の高床式の稲作文化様式で北は青森まで全国から遺跡が発掘されています。
「亜熱帯を裏付ける珊瑚の出土」
興味深いことに千葉県の房総半島では海抜20mのところから珊瑚が出土します。貴重な資料なので自治体が柵をして施錠までして厳重に管理しています。
実はこの珊瑚の付着した徐福の玉石があるのです。


珊瑚の付着した2228年前の子産石 神社に祭られている
子産石にはこのように珊瑚が付着しています。ただし酸性雨に当たってしまった露出の玉石は表面の珊瑚はすべて溶けてしまって付着していません。溶けたカルシュウムは砂浜にあった砂を凝着して、玉石も封じ込めて凝固したのである。佐島石という建築塀に使われている砂岩から玉石が産まれるのです。
この玉石からカルシュウムの生成年代測定が出来れば徐福の到来年のものであるという確かな証拠になるでしょう。
縄文時代が亜熱帯気候であったということは沖縄と同じような気候の緯度にあったと言う事になる。つまり現代よりも温暖化していたのだ。
地球全体が温暖と言う意味ではありません。南極の氷は溶けていないからです。ではどのようになればその環境を作り出せるのか問題になります。しつこいようですが、青森にまで稲作の縄文遺跡が出土するからには、日本列島全体が今より赤道に近いところにあったと断言するものです。
「徐福の海の路」

徐福が慈渓を出航した時代、日本列島は地軸が直立した状態で、図のような位置関係になるのです。偏西風の追い風に乗りさえすれば操船はかなり楽に蓬莱の八丈島に漂着可能なのです。第一陣の船団が二隻だけであったらお互いに相手を見失わないように注意して航海をしたでしょう
「八丈島と小島」

偏西風の関係で最初に童男を小島に上陸させた
「童男の開墾跡」 「童女の開墾跡」

「小島と八丈島の距離は2000m」
二島間は極めて近く小島からであれば、浮きを抱いていれば海流と風が女の住む島へと導いてくれる。月夜ケ浜で女達は筵を敷いて男たちを待った。月夜で海面が明るく、照らされているからであろう。また、男女が交わることを禁じた皇帝の見張りがいて目を他にそらす爲の策略やドラマがあったはずである。
一部の郷土史では青ヶ島に男を置いたと言われますが20km
も南に船を進ませることは、この時代の航海術では不可能に近いものがあります。お互いに見合える位置関係で対岸を見つめ合うように住居を構えているこの状況こそ真実に近いと思います。また多くの玉石が八丈島に現存しています。
男たちは漁業や稲作、絹を育てるための蚕の成育に必要な桑の木など、開墾などに明け暮れ、稲作も当然ながら行ったでしょう。島で飲料水や栽培の水源が心配とおもわれがちですが、当時の縄文時代は亜熱帯気候でモンスーンが度々あり豪雨に見舞われるような水余りの気候なのです。開墾跡地をみても解るように田んぼの畦道がくっきりと残っています。
現在の小島は八丈島町に所属しますが、無人島になっています。徐福は二度と戻っては来なかった、この語り部から考察できるのは見張りの秦皇帝側の役人が嫌われていたかもしれません。その後役人が死亡すると蓬莱本土に移民したのだ。
「気候変動は地軸のずれである」
北極星が移動することは天文を学んだ者なら誰でも知っていますが、普通の人が聞いたら驚いてしまいます。

中国古代天文学星座「蘇州天文図」の中心に北極星は無いのだ、キトラ古墳に描かれていた天井の星座であろう、まさにこれを写し描いたものである。北極が動くと言うことは地軸が移動することに他なりません。
いままで、この移動については認められましたがだれも明解にどの程度動くのかに解答を与えられなかったのです。
しかし今回の調査研究の副産物として、根本要因の解明がされたのであります。
つまり地球の地軸が胡麻すり運動と称する歳差運動であるが歳差運動で北極星の移動は間違いなく起こり得るけれども、26000年と言うだけで誰もその周期の証明に解答を得られていないこと。そしてたとい移動しても季節が反対になるだけで気候変動の鍵となる緯度の変化をもたらすものではなかった。
ゆえに地軸が歳差運動をしながら垂直に向かうベクトルが重なって地軸の傾角が地球コマの回転を元に戻すように働いているから、最後には起き上がって直立するのである。だがその後はまた偏心して倒れていくのである。この繰り返しの周期がおよそ4700年で一巡すると考えるのである。
みなさんもご承知のように現在の地球の自転軸は太陽の公転面に垂直軸を立てるとそれに対して23.4度傾いていると教科書では教えています。そしてその北極の軸の先端には微妙にずれてはいるが北極星が存在します。
ところが、その北極星は1200年前の唐時代蘇州天文図によると存在しません。また高松塚(キトラ)古墳の天井壁画の星座図にも描かれていません。あきらかに、現在の北極星は、たまたま其処にあると言う結論にいたるのです。
では、何年周期で地軸の指す方向が移動するのだろうか、その検証方法について考察していきたいと思います。
「歴史的古代建造物の検証」
歴史的建造物とその思想に着眼して謎を解いていきましょう。
この銭塘江下流の道教寺院の宅院(風水で言う伽藍の配置図)と紫禁城の配置を観たときに意外な発見をしたのである。

AD326年代の真北17.48度 AD1400年代の真北3.68度
宅院は、神殿建設である。道教では紫微垣(しびえん)が神様の居る位置ですから、つねにその方角に社殿は向ける決まりになっています。本来まっすぐ真北を向かせるものが上の図の様に数度ずれています。そのずれから何年でどれだけ地軸が移動するのかを建築年代から計算することができるのです。
この霊隠寺(れいいんじ)の傾きは真北が西に約17.48度倒れている。この寺院はAD326年に建造され、それから1748年経ている。つまり百年で一度の動きと見ることができる。そして、この17.4度を0度として当時の日本列島のあった場所の緯度はと言うと、亜熱帯である台湾と同じ緯度に移動しているではないか。
これで、2228年前徐福が渡来した時にサンゴ礁の群生する海に着床したことがわかる。稲作は年二回の豊作である。
「テオティワカン (Teotihuacan)ケツアルコアトルの斜めの謎を解明」
テオティワカン (Teotihuacan)とは、メキシコシティ北東約50キロの地点にある紀元前2世紀から6世紀まで存在した巨大な宗教都市遺当時のアメリカ大陸では最大規模を誇っていた。
「ケツァルコアトル(羽付きの蛇)」
「月のピラミッド」
テオティワカン人の宇宙観、宗教観を表す極めて計画的に設計された都市で太陽のピラミッド、月のピラミッドそして南北5キロにわたる道(「死者の大通り」)が基点となり各施設が配置されているのだ。
都市で祀られた神々とは、農業・文化と関係深いケツァルコアトル(羽付きの蛇)や水神トラロック、チャルチウトリケ、ペ・トテックなどである。 古代都市の壁が存在しない戦争や圧政のない平和な都市と考えられていたが、発掘調査の結果から、多数の殉教者、生け贄を捧げる風習が存在したことが判明し、戦士の壁画も発見された。
遺跡の規模から考えると神権的な権威が存在し、高度に天文学や暦額が発達した神官の居る統治組織があったものと考察する。市内には商業と交易の中心地マーケットがあり、住民たちの巡礼となって集まる信仰の中心地でもあった。
太陽のピラミッドの地下には、七つの洞穴が枝状につながる洞窟があったのは建設する際の重要な基点なったと思われる。定住した最初の長の墓かもしれない。また北斗七星信仰も視野に入れて宇宙観の象徴かもしれない。
紀元前50年にテスココ湖のクィクィルコがシトレ火山の噴火によって埋まると遷都移設したように急速に発展したようだ。都市の面積は約20平方キロメートルで、最盛期には、10万から20万人が住み下水網も完備されていた。メソアメリカの中心的都市として機能していた。
テオティワカンとは、「神々の都市」という意味で、これは後にこの地にやってきたアステカ人が命名した。
古代都市テオティワカンとして、1987年に世界遺産(文化遺産)に登録されている。
トルテカ帝国とは、メソアメリカ(メキシコ)に、テオティワカン崩壊後、チチメカ侵入前まで存在したと考えられてきた伝承上の帝国であるが確かな年代も不明であった。
しかし太陽を崇拝していた民族は正確な暦を操っていた、さらに太陽信仰と信じられていたが実は北極の観測をして全天球の動きから観測して宇宙の中心に基点を合わせて神殿を作るのが自然ではないだろうか。トルテカ帝国の制定された時期とは祭壇を築いた時ではないかと思われる。
いままで年代で言えば7世紀頃〜12世紀頃と言われているが、角度の測定によると17度オーバーしている。つまり建造から1700年が経ったという結論に至るのである。トルテカ帝国はBC200に始まったと言われているが、AD300年頃には何らかの異変があって月の寺院が建設されたのだ。 まちがいなく最盛期として強大な国家として力を持っていたわけである。ここにゆるぎない基点を確立させることができる。この帝国は、メキシコ中央高原を支配したとされた。

「日本と反対側にあるため角度は反対に動くのである」
東から西へと正中して建設したはずが、17度ずれてしまった。
トルテカ帝国が実在した根拠として、「トゥーラ」の北方450kmに位置するサカテカス州のラ・ケマーダ (La Quemada) が、米国南西部で得られるトルコ石の交易路を守るためのトルテカ帝国の要塞と想定されていたが、近年のベン・ネルソンの調査によって、古典期後期にあたる650年〜750年の遺跡であると発表されたが実は300年〜750年と修正することが好ましいと判明した、「トゥーラ」の全盛期である、トゥラン (Tollan) 期のAD300年頃〜1150年頃と大幅にずれるだろう、暦を制定した民族は絶える事を知らない。
様々な南米の文化はマヤ文明を代表に長期にわたって天文観測をしてきたが、このケツアルコトルの周辺遺跡からみても、発症した時代が、2300年ほど前の文化である。 まさか、徐福の一行の船団が逸れてしまってこの地に漂着した可能性は無いとも言えない同一年代なのだ。
南米コスタリカ ディギス川デルタ地帯の太平洋沿岸のバナナ農園開墾の土中から発見1930年
南米の巨大な玉石は、成分を分析すれば徐船団か判明するはずである。暦を司っている司祭達を乗せた船が漂流したのだろうか。

1930年中米コスタリカの密林で、100個以上の玉石がみつかったという、巨大なものは直径2.4mで重さは20トンある。海岸からかなり離れた奥地であるが玉石は、花崗岩で作られており真球で表面は滑らかに研磨されている。
北極星が真北に無かった時代であり、さらに地軸の再上端にあった時期で天体観測していたら反対に天の中心が移動を始めた時代になる。
ところが、きわめて精密な暦を製作したと思いきや、残念ながら誤差を生じていたかもしれない。 2012年で暦が終っていると言うことは、誤差が三年であったと言うことなのだ。
2007年が北極星の真北に入って出始める年で東洋の観測のほうが正しかったことになる。非常に正確に計測した、2007年に天変地異がなかったように大規模な世界的天変地異や災害はないはずである。地軸の方向が停止さらに逆移動のため大潮に乱れが生じる程度だ。
「古代の帆船の発見場所と規模について」
渤海からの日本海航路がすでに4000年も昔から存在したことを思わせるような遺構が発見されたのである。ここで、渤海について説明のため地図で紹介をしたいと思います。


@徐福東渡の時代 A高句麗の関東に侵略時代
@地図は紀元前の半島であるが、最下部の赤い部分が「任那日本府」であります。この民族がまず一番先に九州に上陸し関西に入って行った、さらに続いて百済民族が後を追うように渡来したため争いが起きてしまった。次に追われることになったのは、A地図の水色の高句麗民族である、関西方面は殆ど先住者がいたために、関東の大磯に侵略することになったのである。しかし、そこはすでに徐福の郷であった。
横幅20m長さ60m古代船

この古代船は「東京」の海岸から近いところの遺構である。非常に大きな船でありおよそ500トンはあると思われる。 2200年も前にこのような巨大船が東洋にあったとは驚きである。エジプトで太陽の船がピラミッド近くで発見されたが、4700年も前から造船技術は存在したので、なんら不思議ではない。 この渤海の中心的都は、現在は中華人民共和国の吉林省に該当する。
中国の書物、易経が書かれたのが BC1600年であり、文王の名前や、箕子が狂人の振りをして叔父の圧制から逃れて朝鮮半島に逃げたなど、記載がある。
現在は渤海は氷の海であるが、2400年前は、亜熱帯であり海が凍ることは無かった。だが、地軸の傾倒が続いていたため、温暖な土地を求めて民族は移動したのである。現在の朝鮮半島の北韓の民族は間違いなく渤海人だと、断言できるかもしれない。
最南韓の民族と高句麗民族は、海を渡って蓬莱(現日本)に移り住むしか方策はなかった。北朝鮮(北韓人)が渤海の都は自分達の領土だと、中華人民共和国と争っている理由が、本来の意味なのであります。
「ポールシフトベクトルモーメントについて」
地球のコマは、机上でコマを回すことに似ている。回転するジャイロコマは、常にその方向を一定に保つ運動をする。地球が横倒しにならないのはこの力のおかげである。しかし地球以外の他の惑星の動きはどうだろうか、横倒しになりながら自転も公転もしている。月は一見動いてないようだが、地球に一方向だけ見せながら裏側を向けることが無い。だが太陽からみたら、地球の周囲を月が一回転するときに自分も同時に一回転しているからこそ同じ面を向けられるのである。つまり月も自転をしていることになる。
その周期が24時間であるから、と言うことだ。地球も自転はしていているが一年で365回転しているが、太陽から見るならばさらに一回転プラスになっているわけである。
本題に入りたいと思いますが、地球コマが自転をしながら太陽の引力に影響されながら公転運動をするときに、その影響を受けないであろうか。月は我々の地球に大潮と小潮を作っている。つまり太陽も地球の影響を受けているはずである。力というのは作用と反作用の関係であるから当然、地球も影響を等しく受けるわけである。
ポールシフトベクトルが何処から発生するのか、そしてその力の大きさはどの程度であり、その周期はどれ程であるのか、科学と言うのは、理論と実証が大切である。 また逆説もあって実証や結果からその原因的理論の計算式を編み出すことも可能となるのである。
今回の論文の発表は、長い期間の間に人類が残してきた文化遺産を頼りにその考察から実証を試みた物である。
「地軸の移動は微弱であるが認められる」
地球の中心軸移動
「南極点の地軸移動の五年間の記録に現れた事実」
この図をよく観察すると、グリニッジ方向とイギリス観測科学局方向への基軸をもとに観察した記録であるが、一年間に約1.5mづつグリニッジ方向に偏心している、南半球から見たらイギリスが南に近づいて停止したことになる。この停止から反対方向に動き始めれば、ポールシフト理論が正しいことが証明されることになり確かな証拠となる。日本は北上を止め南下して暖かい時期に入ることを意味している。サンゴ礁が死滅するのは水温が低いからである。これから亜熱帯に向かって行くのである。
重要なことは2005年の濃い青のラインが2007年に中心に来た筈であるが地軸移動の停止時期であるため観測結果は移動半径値が微弱になって行ることが観測の結果わかったが2007年以後も発表して欲しい物である。また発表すると何らかの支障があるので控えたのかもしれない、イギリスが北極に近づき氷河期に入ることを彼らは知っている。ストーンヘンジの石の運搬でそのことに触れているからである。移動速度は停止の時期に無ければもっと速い速度で動かなければなりません。古代からの観測で 23,4度を2340年費やして動くのだから、1度動くのに100年である、微動期の五年間の観測では、一度の二十分の一度しか動かないが、貴重な観測データーであり高く評価に値すると思う。
この観測値は2350年で4700m地軸が移動してしまう。
地軸の中心だけが気候を左右するのでは無い、太陽黄道から見た地軸の角度がずれて来る。
太陽からの地磁気の影響も、シフトモーメントが磁気誘導が原因と考えることもできるだろう。
誘導電動機(インダクションシステムモーター)の作用である。
地球が動いているのに、北極星が移動していると古代人は確認したのである。自転も公転と言う概念も無かったか、あったか、定かではないが観測して一定の周期で移動していることを確認して暦を作ってきたのである。


現在の地球23.4度寒冷期 / 2228年前の地球 亜熱帯
歳差運動をしている地軸は太陽の周囲を公転しながら、その傾き角度を変化させているのである、そして現代は縮小させる時期に入り地球は起き上がってきたのであります。そして片道 約2340年周期であると結論するものなのである。

「世界三大ピラミッド建設時の地軸の謎は」
エジプトでクフ王、カフラー王、メンカフラー王のギザピラミッドが建設されたのがBC2550年頃です、それにAD2010年を単純に加えると 4560年前頃となります、エジプト天文学者が北極部分の動きを観測していたときに、北極星がその中心に入ったのであります。
天体観測をしていた神官は王の側近として大きな指導力を持っていたのだ。王様にこの天体の動きについてしらせ、今こそ、ピラミッドを建設し国土を安定化させる爲の祭壇や神殿を築きましょう。そのように進言したはずであります。
まことにおめでたい配置になったのであるから、神官達は、天地が引っくり返るような、お祭り騒動があった。
その北極星は見かけ上その場所に三百年留まっているように見えるので、停止したと考えたのでしょう。その時の真北は今と同じ位置にあったので、ピラミッドの横に開けられたシリウスの窓から星明りを現代が相似期で同じように導けるのです。
言い方を変えれば、現代にこそピラミッド建設の測量技術の
すべてのノウハウを解読できる時期は他には無く、次の
4700年後を待つしか無いのであります。
「見事なまでに正確に真北が測量された配置」

古代の儀式では、暦の制定が不可欠であった。常に北極を中心に天空が回転している、その中心に最大の関心があったのである。現代の北極星が中心に入るまでは常に移動していたのであります。この観測の結果、北極星の移動が次第にゆっくりとなって停止すると天文の博士たちは結論付けたのです。その証拠は、ピラミッドは約一度東に斜めに傾いています。ちょうどこの時点で、北極星が鎮座したと決断したのです。
ところが、その後二百年すると再び北極星は移動を初め中心からどんどん遠ざかっていったので、エジプトの人々は、神の怒りと恐れて混乱の時代へと突入したことでしょう。

「現代が歳差運動の最大時期ボトムである」
地軸歳差運動の公転半径の折り返し地点の状態は移動が完全に一旦停止してから反対方向に動き始めるので、現代時期三百年は真北が±一度しか移動しないように見えるのであります。現代と同じ周期に三大ピラミッドは建造されたと見るのが正統ではないかと思うのであります。
この論文を読まれた諸氏の感想を是非伺いたいものです
現代から約4700年前の相似形ロマンがここにあります。そして、日本列島はいま、最寒冷を抜け出して亜熱帯気候に、向かい始めたのである。北極と南極は地軸が起き上がるに従って太陽から遠くなり氷は溶けることを知らない堅氷期にはいるのです。
「ポールシフトスパイラルモーメント」と命名する
運動エネルギーからみると、地球の自転は姿勢を保ちコマの重心を確保するのに徹している。スパイラル歳差運動の立ち上がりポールシフトのベクトルモーメントがどこから発生するのかと言うと太陽を公転するときの公転運動から得られる力なのである。百回の公転をすると地軸は一度変化していくのである。
地球ゴマは机の上のコマと同じように寝たり起きたりを繰り返して回転しているのである。ニュートンが林檎が落ちるのを見て万有引力があることを発見したのと同じように、皆がコマの偏心運動に気がついていたのである。だが、まさかこの我々の地球がそのような動きをしているとは誰も考えなかったのである。
風水師 陳 希夷
2009年12月11日
「弟子達に」
「子宮年を定めた理由が解明された道教精神」
2010年は、紫微天文暦4709年目である。杭州の天文台で、一番最初の「子宮」年が決められてから数えての年である。その年を定めた「歳星」は木星であり、12年で黄道を一周し年を司るからである。その時期は北極星が紫微星として君臨し始めたからである。それまでは唐時代のように中心部に星が無いので「紫微垣」(しびえん)と呼んでいた。北極星が中心に納まって御目出度い状態になり暦を制定したのである。
その4707年前を子年の始まりとするので、来年と言うのはポールシフトスパイラル転換期が始ってから子牛寅と数えて三年目の観測年と言う事になる。黄道十二宮の「子宮」は木星が現代で言う人馬宮(射手座)に入る年と定めたのである。
「天地回参」
還暦を迎える前に道士としての使命を果たせた。 このような天文学の真理を発表できて感無量である。東洋に生まれて漢文学をたしなみ、易経典を解読し「原文精解」を昨年発刊し、紫微斗数を精査して正確無比の「紫微斗推命」として商標登録した。後世に禍根を残さないよう定礎を築くことが出来たのである。弟子を210名与えてくれた天に心から感謝をする次第である。元年の決定理由を解明にした。皆が私の後を引き継いで道教の伝統を守ってくれるものと確信する。
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逗子市葉山町日中友好協会 理事 前市議会議員
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「道士 陳 希夷」チェンシーイ道教僧侶
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